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ブラッディクリークの戦い (1711年) : ミニ英和和英辞書
ブラッディクリークの戦い (1711年)[ぶらっでぃくりーくのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

クリーク : [くりーく]
 【名詞】 1. (1) cleek (golf) 2. (2) creek 3. (P), (n) (1) cleek (golf)/(2) creek
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

ブラッディクリークの戦い (1711年) : ウィキペディア日本語版
ブラッディクリークの戦い (1711年)[ぶらっでぃくりーくのたたかい]

1711年のブラッディクリークの戦い(ブラッディクリークのたたかい、Battle of Bloody Creek)は、1711年6月21日6月10日)〔21日はグレゴリオ暦を使用していたフランスの日付で、ユリウス暦を使用していた当時のイギリスの記録では、6月10日である。〕、アン女王戦争中に行われた戦闘である。アベナキ族が、アナポリス川岸で、イギリスとニューイングランド民兵連合軍を待ち伏せして勝利を収めた戦いで、後にこの場所は、この戦闘にちなんでブラッディクリークと呼ばれるようになった。現在の、ノバスコシア州カールトンコーナーのアナポリス川に注ぐこの水路(クリーク)では、1757年にも戦闘が行われた。
この戦闘は、アナポリスロイヤルを守っていたイギリス軍の戦力を削ぐための、ヌーベルフランスによる策略の一部だった。イギリスは、その前年にポートロワイヤルを攻略したばかりで、この地域の守りに多くの人数を割けなかった。この攻略で、すべての兵が戦死または捕囚されたことにより、フランスとインディアンの同盟軍は奮い立たせたが、彼らには大砲がなかったため、イギリス軍を効果的に攻められず、またイギリスが海路援軍をよこしたため、戦闘を放棄した。
==歴史的背景==
ノバスコシア州のポートロワイヤル、現在のアナポリスロイヤルは元々アカディアの首都であり、アカディアが発見された翌年の1604年に入植がはじまって、それから100年の間、アカディアの首都であり続けた。その結果、この地域は、イングランドの植民地とアカディア住民との限定的な争いの場となり、1613年サミュエル・アーガイルに率いられたイングランド軍によって破壊されたものの、結局は再建された〔MacVicar, pp. 13–29〕。1690年には、マサチューセッツ湾直轄植民地から攻略されたが、1697年9月20日の、レイスウェイク条約でフランスに返還された〔MacVicar, pp. 41–44〕。
1710年のポートロワイヤルの戦いで、ニューイングランド民兵とフランシス・ニコルソン率いるイギリス海兵隊がこの地を攻略し、アナポリスロイヤルと名を改め、砦もアン砦と改称された。、またその後、民兵と海兵隊から成る約450人の兵が砦に駐屯した〔MacVicar, p. 65〕。その後何カ月かの間に、正規兵も駐屯隊に加わったが、駐屯隊の存在が効を奏していたのは、砦とその周辺だけだった〔Faragher, pp. 119–122〕。砦から3マイル(4.8キロ)以内に住むアカディア人は、駐屯隊の保護下にあったが、そのアカディア人たちには、イギリス国王への忠誠が強要された。481人のアカディア人が忠誠を誓うように言われたが〔Drake, p. 261〕、1711年の1月半ばの時点で、実際に誓いを立てたのは57人にすぎなかった〔Griffiths, p. 244〕。
ポートロワイヤル陥落の知らせがフランスに届いた時、海軍大臣のポンシャルトラン伯爵ルイ・フェリポーは、フランス人カトリック宣教師を、現在のメインニューブランズウィックワバナキ連盟アルゴンキン語族の連盟)に派遣し、フランスはこの地で強力な足場を築くことができた。また、フランス人の父とペノブスコット族の母を持つベルナール=アンセルム・ダバディ・ド・サンキャスタンはアカディアの最高指揮官に任命され、伝道師たちと同様の命令を受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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